大航海時代を皮切りに以後ヨーロッパの植民者と貿易商人はアジアを目ざし、インドや東南アジアに上陸するが、ハタハタ倒れてしまう。ポルトガルの植民地ゴアの例だと、数年したら人口は六割に減っていたという。毒矢にやられたわけではない。暑さで体力の弱ったところに蚊の襲撃を受け、マラリヤなどの熱帯病をうつされて病死した。毛穴の足りないヨーロッパ人(毛穴の数は遺伝ではなく、生れた場所の寒暖によるそうだ)に暑さはことさらこたえた。
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そこで彼らは原住民の住まいの高床の縁に注目するのだが、なんせ開放的だから原住民の毒矢がこわくてなかなか採用できない。結局、十八世紀後半になり植民地支配が確立してからようやく採り入れ、ヨーロッパ流の箱型の建物の周囲にベランダを張り出す形式が成立する。なお、ベランダという言葉は、ベンガル地方に入ったイギリス人が現地語から取り入れたものという。こうして成立したベランダ付の西洋館のことを。ベランダーコロニアル建築と言うが、これが、東南アジアを回って北上し、香港、上海をへて、開港した長崎さらに横浜、神戸へと上陸し、さらに国内に広まった。長崎のグラバー邸や神戸の山手の異人館はそうした実例なのである。アジア南方に生れた縁は、弥生時代に米作とともに日本に入り、それから二千五百年後、ヨーロッパ文明とともにまた入った。日本の歴史の大変革は、縁とベランダに乗って上陸したと言えなくもない。